昭和五十六年二月六日 朝の御理解
御理解第九十二節
神は一體じやによって此方の広前へ参ったからと云うて別に異う所はない役所ではおかげを受けたけれども此所ではおかげが受けられぬと云うのは守々の力に依って神のヒレイが異うので神の守をして居れば諸事に身を慎み朝寝をしてはならぬ早く起きると遅く起きるとは氏子の参詣の早い遅いにかゝわるぞ。
お道の信心というか、おかげを頂くという事は、お取次を頂いてお取次を願っておかげを受けるというまあ仕組みになっているんですね。「お取次を頂いてお取次を願っておかげを頂く」という事はいろんな難儀な問題なら難儀な問題をお願いをするお取次を頂く。
そして神様からの御教えというかこういう在り方にならないとおかげにならんぞというて御教えを下さる。
だからその御教えを頂いて帰る。ですからそれを取次いで下さる先生はもうそのまゝ教祖生神金光様のお手替りなのですから、教祖金光大神様そこにおあしますとしてお取次を願わなければならないと昔から云われてまいりました。ですからお結界にはまあいうなら藁人形が座っておってもそれを金光様というて頂けば金光様としての力とかお徳が表れるのだというわけでございます。そこで信者がいよいよお結界に御用して下さっておる先生を生神金光様と頂けならたしかにそうだと思うです。そういう一つのまあ理念というでしようか、例えば百のお教会があれば百人の生神金光大神様という事になるのです。ですから頂く方の側が生神金光大神様と頂けるまた頂かなければならんというふうに教えられてまいりました。
昨日教報がまいっておりましたから佐田先生に、まあ此の頃自分で読めませんから所々読んでもらうわけですけれども、本当に百年祭を目指して教団の総力を結集して社会に布施する教団金光教としてどんなふうにあるべきか、いやこうあらなければならんといったようなお話がいっぱいであります。
そしてその布施という事がどういう事になっとるかというと、先日の時も私が皆さんに話たように信者の方側にこゝに座わっておるが例へ馬鹿であっても金光様として頂かなければおかげにならんぞという事を教えておるという感じですね。もう兎に角先生が力を受けなければとたとえばこゝであるようなふうな事は書いてない。信者が、こゝに座わっておる信者を馬鹿でもチョイでもそれを生神金光大神様と拝まなければおかげにならんといったような説き方。はあそうなんだと、事実そうなんですけど、なかなかそりあ難かしいですね。それでまあ教えられるもんですから皆こゝへ来るとポンポンと他よその信者さん方はそれをなさいます。相手を打たれる。やっぱこゝに金光様が座わってござると思ってポンポンとほんな形だけ。本当に教祖金光大神様がこゝに座わっておられると思うて相手を打つならね、もう本当に生神金光大神様としてのお取次の働きというものはそこに表われなけりぁならない。
だから信者の方側にだけ、先生は金光様金光様として頂かなければ、親先生の言われる事は神様の云われる事と同じだというふうに教えられておるような感じです。どうでも信者から本当にうちの親先生こそ神様じゃ、家の先生こそ金光様だと思いこませるような信心とか修行という事にはあんまり触れてない。
昨日の御理解の中にも今度の寒修行あけの瀬戸先生の御講話を拝聴してもう本当に合楽全体が一つの有難い意味においての転期を得たような感じ、一段と信心が進んだ。一段と今迄の信心から次の、今までの信心を脱皮して新たな信心になるだろうと思われる程の私はおかげを頂いたと思うんです。それは、今まで百作方しかないと思うておった先生を千作も万作もの重みをもって頂くという事、というふうに聞かせてもらったし、又改めて皆さんもそれを感じておるような事ですよね。
昨日は壮年部会でしたが、久留米の安東さんが発表しとられましたがねあちらはこのお酒の方が好きですから、せめて御大祭の時だけ位はまあ一週間も十日も前から禁酒して御大祭にむかっての修行をさせて頂くとこう云う。たとえば一昨年よりも去年、去年よりも今年というように、それが実際に精神する事が出ける容易うなってきた。始めあたりはそう思うたけれども途中ですぐ挫折しよった。まあいうならば一週間ならば五日目位には挫折しょった。ところがその次の年は少しはまあ五日で失敗しょったっがまあ七日間まではもてた。最近ではおかげを頂いてだんだんそれが実行する事が出けるようになつたという意味の話をしておられました。
親先生のお取次の働きによるものだというてまあしめくゝられましたが、私はそれを聞いて申しました事でした。いやそうじやなかばい、結局大祭というものがどういうものか、大祭というものが信者一人一人にとってあれは教会のお祭りじぁない、親先生のお祭りじぁない、信者各々自分達の御大祭として頂くという程の内容があるものだという事がですいよいよ本当に一昨年より去年、去年よりも今年というように分ってきなさったんだ御大祭に対する重みというものがそれだけ出けてきなさったからね、御大祭前の御修行がそんなにだんだん楽に出けるようになったんだというてまあ説明をした事ですけれどもたしかにそうです。大祭に対する重みというものが大祭というものがどんなもんかと云う事がいよいよ分っただけではなくて重みを増してきた、だから始めに思い立った修行がだんだん楽に出けるようになってきた。もう今年などはそれが有難く出来るようになつたと、成る程親先生のお祈りおかばいの中にあるからこれが出けるんだと安東さんは発表されておりましたけど、そうじぁない御大祭に対する頂き方御大祭の内容というものが本当に安東さんの物になってきたんだねえ。重みなんです。
昨日久富正義先生が発表しとりましたが、本当に昨日の夕べの言葉で昨日ですね、瀬戸先生の御講話を頂いて本当に合楽の皆さんはいうならこれ程の先生を頂いておってその先生をどれ程に重みをもって頂いておるかという事を聞かせて頂いて、たしかにそうだとこう思うた。毎日同じ言葉、同じ態度で形の上では、親先生今日も御神勤ありがとうございます。その御神勤有難うございますという一事がです。もう昨日はこの事を唱えておると涙がこぼれてこぼれてしようがなかった。
いうならそれ程、御結界、親先生を重くみたからです。勿論私の一ばん修行時分のそもそもの頃から知っておりますから本当にあゝいう過程ああいう所を通うられて今日の合楽があるんだ、親先生があるのだというものがその日々御神勤ありがとうございますの中にこめられてきたんだそれを二言、三言たとえばそれをくり返し御神勤ありがとうございますというとるだけで感動して涙がこぼれてしようがなかったという、たった一回の発表でしたけども、もうまさになら今度の寒修行を機会にそういうおかげを先生自身が頂からたという殊になるでせうが、御神勤ありがとうございます。形は同じことなんだ、日々御神勤ありがとうこざいます。
その内容がいうなら何十年間前の先生が一番御修行の時分も知っておるあの時分の事からずうっとこう思うてみるのじぁなくてそれがその中には入ってくる、日々御神勤ありがたい、日々御神勤ありがとうございます。始めて金光様有難うございますというて手がたゝかれるような心の状態とはそういう事ではなかろうかとこう思う。たしかに過去金光教で云われてまいりました、御結界に座っておるものがたとえ馬鹿でもチョイでも藁人形でもそこに教祖生神金光大神がお座わりましますのだという頂き方が出けるようになっればもうそれは最高でせうけれども、なかなか本当に馬鹿先生が座わっとってその馬鹿先生を見とってからですたい、まちっとどげんかあんなさるとよかばってんと言ったようなそれは、手は打って日々御神勤ありがとうございますは云うとってもおかげになるとじぁないでせう。重みが違う。
そこで皆さんとしてはたとえたとえば昨日の御理解じぁなかばってん、私がね朝の中ちああかなに元気じぁつばってん夕方はもう南無阿弥陀仏になってごさったというようなことになりかねないのが人間ですから、いつ誰が座わっておってもそれを親先生が座わっておられるとして頂けれるその重みというものをです。お互いが頂かいとかならん自分の信心の内容というものが、それこそ誰が座わっておっても金光様として頂けるような信心内容をいよいよ高めておかねばならない。勿論先生自身もいわゆる守々の刀とおおせられるからいよいよ力を受ける事に精進していかなきあならない。
日々御神勤ありがとうございますと云うその先生が御結界をおろそかにぬして寝たり転んだり遊びに行ったり、いつも、いつ参っても御結界は空いておる、〇〇教会じあなかばってん「もうし」ち云うたっちゃ出てこらっしゃらん。お賽銭の音がちゃりんちゃりんちいうと裏から出て来なさるという所もあるといったようなね、これでは日々御神勤有難うございますと云おうと思っても云えませんよねる本当に云うならば御結界を死守するというか本当に御結界に命をかけておられる所であってはじめて御神勤ありがとうございまいという事が云える。
だからこゝは結局お取次をさせて頂く者又は取次を願う者がですそういう例ば粗雑な所が見えない、たとえこゝには藁人形が座わっておってもいうならば本当に人が拝みたい人を物を拝みたい、あの人も、皆人を神の氏子として拝みたいというて形の上なら何んでも物でも人でも拝む事は出来ます。けれども心から拝める為なら先ずは自分自身の心が拝めるようにならねば拝めないという事。いかに御結界をなら拝むといっても自分自身の心が拝めるようになるとこゝは誰が座わっとっても御神勤ありがとうございますと拝めれるようになるんです。
ですから先ずは自らの心自体をです昨日は瀬戸先生のお話でお互いがはあっと思うように気がついた。〓んたのこと思えば毎日毎日こんな有難い御理解頂いとってその御理解のありがたいというものが百のありがたさであったのが昨日を境にもう本当にありがたいものになってきた。こりあ本当に行じなければ勿体ないその行じていく中に信心の力も付き自らの心を自分で拝められるようにもなりそこに一切を拝めれるいうなら御結界に拍手して拝めれるようにもなってくる。そこに表われてくるおかげを金光大神お取次の働きお取次の道とはそういう事なのだ。
そこにはいうならば偉い先生が座わっておろうがならべて同じという事になります。そういう精進をしていく勿論教師の信心修行もさることながら一般御信者としては先ずは自分自身の心が拝めれるようになるそこから御結界が拝めれるようになる。それこそ千作も万作もの重みをもって御結界が頂けるようになるという事になるのじあないでしようかね。
どうぞ